叶堂城跡・感応寺
叶堂城(かのどじょう)は、淡路島・慶野松原にもほど近い三原川沿いにかつてあったお城です。
慶長5年(1600年)に志知城に代わる水軍基地として築城されましたが、築城後まもなく起きた関ヶ原の戦いで敗れ、叶堂城は廃城されました。
その後、元和7年(1621年)叶堂城跡に感応寺が再興されましたが、昭和59年(1984年)に三原川の拡張工事の際に、約300メートル東に移設されました。
現在も、立派な石垣の上に建つ感応寺の様子を見ることができます。
叶堂城の歴史
叶堂城は、慶長5年(1600年)に、豊臣秀吉の代官・石川紀伊守光之によって、大日川上流にある志知城に代わる水軍基地として築城されました。
築城後まもなく関ヶ原の戦いが起こり、西軍に属した石川氏は破れ、淡路国は阿波国徳島藩主蜂須賀氏の所領となり叶堂城は廃城となりました。
※一般的には「かのどじょう」と呼ばれていますが、文献によっては「かなどじょう」と表記されているものもあるようです
叶堂城跡の石碑
もともとあった叶堂城(感応寺)は、昭和59年(1984年)の拡張工事により、約300メートル東に移設されました。
叶堂城の敷地のほとんどは、この川の中に沈んでしまっており、残念ながら当時の様子を伺い知ることはできません。
叶堂城があった場所には、「史跡 叶堂城跡」の石碑が置かれています
設置場所:兵庫県南あわじ市松帆古津路148
感応寺
移設された感応寺は立派な石垣の上に建てられています。
こうやって見ると、確かに城壁の様子が見てとれます。
石垣は後年補修されたものも多いようですが、西側には、当時の叶堂城に使われていた貴重な石垣が積まれているようです。
階段の上に、観音堂や梵鐘があります。
ちなみに、感応寺の名前は、観音堂→感応堂→感応寺と変化していったものと考えられているそうです。
階段を上がると、正面に観音堂があるので先にお詣りします。
ここ感応寺は、最初は倭文村(しとおりむら)の感応寺山にありましたが、永正5年(1508年)に火災にあい、古津路(こつろ)の叶堂に移転してきました。
その後、慶長5年(1600年)に叶堂城築城に伴い、北の松原に立ち退いたものの、すぐに叶堂城が廃城となり、元和7年(1621年)叶堂城跡に感応寺が再興されました。
そして、昭和59年(1984年)に三原川の拡張工事に伴い、現在の場所に移設されました。
こんなに転々とするお寺さんも珍しいかもしれませんね。
市の有形文化財に指定されている梵鐘。
この梵鐘は、室町時代である文明7年(1475年)に寄進されたものらしいです。
境内を取り囲む壁には狭間もあり、お城の雰囲気が漂っています。
感応寺の御朱印
残念ながら、感応寺では御朱印はやっておられないようです。
駐車場
感応寺には駐車場はありませんが、境内にスペースがあるので、こちらに駐車させていただいてお詣りします。
なお、石碑のある叶堂城跡にも駐車場は用意されていません。
感応寺(叶堂城跡)の基本情報
基本情報
- 時間:24時間見学可能
- 定休日:なし
- 参拝料:無料
- 住所:兵庫県南あわじ市松帆古津路148-2
- 駐車場:お詣りの際は境内に駐車